「草はひとりでに生える」 osho
p38~
この質問者が 睦州(ぼくしゅう)のところへ来て訊いたのは、まさにこのことだ。
ここから抜け出すのを助けてください、もうたくさんです。
でもどこから逃げ出していいのか私にはわからない。毎日毎日食べたり服を着たり、、、どうやったらこの死んだルーティンから、この轍(わだち)に はまった状態から抜け出せるでしょうか?
すると睦州は応える。
私たちは着 私たちは食べる
睦州は多くのことを言っている、彼は言う。
そこには、抜け出すべき何者もいない。だから、もしそこに誰もいないのならどうやって退屈する。誰が退屈するのか?
私だって、あなたがするのと同じことを全部やっている。朝起きて、シャワーを浴びて、食べて、着て、でも私は退屈しない。私は永遠が終わる時が来ても、そのときまでこういうことを続けている。
なぜ私は退屈しないのだろう?
倦怠を感じないのだろう?
それは、私がそこにいないからだ。
だから一体誰が倦怠感を覚えることになる?
もしあなたがそこにいないなら、誰がこれは繰り返しだと言うことになる?
朝は日ごとに新しい。
それは過去の繰り返しではない。
いつの朝食だって新しい。
瞬間、瞬間が新しく、新鮮だ。それは、早朝、草の葉の上に落ちる露の玉のように新鮮だ。あなたは、その記憶のために、抱え込んでいる記憶のために、連れ歩いている記憶のために、退屈を覚える。新鮮な瞬間を、いつも過去を通して、埃っぽい過去を通して見るから倦怠を覚える。
睦州は今の瞬間を生きる。他の時間を持ち込んで、その瞬間と比較することはない。過去を運んでくる誰もそこにいないし、将来を思い煩う何者もそこにいない。
そこに在るのは、生命のプロセスだけ、意識の流れだけだ。それは瞬間から瞬間への動き続ける。常に、既知から未知へと、慣れ親しんだものから未知のものへと流れていく。
だから、そこから抜け出そうと頭を悩ませているのは誰だ?誰もそこにはいない。
睦州は言う。私たちは着、私たちは食う、それだけのことだと。私たちは、それを問題にしてしまわないだけだと。
問題が出てくるのは心理的な記憶のせいだ。
あなたはいつも過去を持ち込む。常に持ち込んでくる。比較し、判断し、非難するために持ち込んでくる。
私があなたに一輪の花を見せたとしても、あなたはそれを直接見ない、、
ああ、これは美しいバラですね。
それをバラと呼ぶ必要がどこにある?
それをバラと呼ぶ瞬間、あなたが過去見たバラが全部そこに集まってくる。それをバラと呼ぶ瞬間、あなたは他の花たちと比較した。身元確認をしたのだ、分類したのだ。
それをバラと呼ぶ瞬間、それを美しいという瞬間、あなたの美に関する観念が、バラの記憶が、想像が、全て入り込む。
バラは雑踏で見失われる。このバラは雑踏で迷子になる。この美しい花は、あなたの記憶や想像や観念のなかで失われる。
こうなるとあなたはうんざりする。これもまた、他のバラと同じに見える。
違いは一体何か?
もしあなたに、この現象、このバラを、直接的に見ることができたら、もし新鮮な眼で、過去から空っぽになって、晴明な意識、雲のかかってない知覚で見ることができたら、扉をしっかり開け放って、言葉の存在しないところで見ることができたら、もし、この花とちよっとの間でも「今ここ」に在ることができたら、そうしたらあなたにも、睦州がこういう時それを理解することができるだろう。
私たちは着、私たちは食べる。
彼が言っているのは、現在のなかで、どんなことでもトータルにやりなさい、ということだ。
そうすれば繰り返しだとは感じなくなる。そして、あなたはそこにいないのだから、誰が過去を持ち込む?誰が未来を想像する?
あなたが不在であることによって、そこから一つ異なった質の存在が起こってくる。
瞬間、瞬間が新しく、水のように流れ、ゆったりと自然になる。人は、一つの瞬間から次の瞬間にただ滑り移るだけだ。
ちょうど蛇が古い皮からすべり抜けるように、古い皮は後に残される。
蛇はけして後ろを振り向くことはない。