アコアのブログ

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ただ静かに黙して坐るだけでは瞑想に入っては行けないのでしょうか?~ダイナミック瞑想

OSHO Active Meditation
http://www.osho-japan.com/guide/dynamic2.html

 『OSHO....。ダイナミック瞑想はひじょうに活動的で奮闘を要します。
ただ、静かに黙して坐るだけでは瞑想に入っては行けないのでしょうか?』


浄化から始めなさい:Begin with Catharsis
          
そうしなければ、欲求不満になるだろう。
私はみんなにただ坐ることから始めよなどとは絶対に言わない。始めやすいところから始めるがいい。さもなければ、あなたは不必要にいろいろなことを感じだす。そこにありもしないことまでも――。


 坐ることから始めたら、内面に大いに動揺を覚える。ただ坐ろうとすればするほどますます動揺する。ほかのものにはなにも気づかず、あなたは自分の狂気だ けを自覚するようになる。憂鬱になってくる。あなたは欲求不満になり、歓びを感じなくなる。それどころか、自分が気違いじみていると感じるようになる。と きには、実際に狂ってしまうかもしれないのだ!


 「ひたすら坐ろう」とまじめに努力したら、あなたはほんとうに狂うかもしれない。ただみんな心底まじめにやろうとしないからそれほど気違いが出てこない だけのこと。坐る姿勢をとると自分のなかのたいへんな狂気に気づくようになって、まじめにそれを続けたら、あなたはほんとうに気が狂うかもしれない。そう いうことはいままでに何回も起こって来た。だから、私は欲求不満や憂鬱や悲しみを生み出すようなもの、自分の狂気を意識しすぎるようにさせるものはけっし て勧めない。


 あなたは、自分のなかにある狂気をすべて自覚する用意はできていないかもしれない。ものごとが少しずつわかってくるのにまかせなければならない。知ると いうことが必ずしもいいとはかぎらない。知識を吸収するあなたの力が成長するにつれて、それは徐々に姿を現すようになるべきだ。


 私はあなたの狂気から手を着ける。坐る姿勢からではない。私はあなたの狂気を認める。狂ったように踊ればその逆のことがあなたのなかに起こる。狂ったよ うに踊ることで、あなたは自分の内側の静かな、沈黙している地点に目覚めるようになる。逆に、静かに坐った場合は狂気に気づきはじめる。自覚のポイントは 必ず反対側にあるものだ。


 あなたが狂ったように混沌と踊ることで、泣き叫ぶことで、混沌たる呼吸をすることで、私はあなたの狂気を許している。そうやって狂気を表出するなかで、 内側にある微妙な点、深い地点に気づきはじめる。それは沈黙し、静止していて、周辺の気違いざたとは対照的だ。あなたは歓びに満ちるだろう。


 あなたの中心には内なる沈黙が存在するのだ。が、ただひたすら坐っているときには、その内側のあなたは狂ったあなただ。あなたは外見は静かだが、内部で は狂っている。能動的なもの、積極的で生き生きしていて動きのあるものから始めるなら、その方がいい。そうすると、内なる静けさが成長してゆくのを感じて くる。その静けさが成長すればするほど、それだけ坐る姿勢や横臥の姿勢をとることが容易になる。つまりそれだけ静かな瞑想が可能になるということだ。


 が、それまでには事態はすっかり違っているはずだ。動くこと、行動から始まる瞑想法は、他の点でもあなたの助けになる。それは浄化になるのだ。ただ坐っ ているとあなたは欲求不満におちいる。心は動きたがっているのにあなたはただ坐りっぱなしだ。あらゆる筋肉、あらゆる神経が動こうとする。あなたは不自由 なことを自分に無理強いしようとしているのだ。そうしたとき、あなたは自分自身を強いる者と強いられる者とに分裂させてしまっている。


 そして実際には、強いられ、抑圧されている部分の方が本物の部分なのだ。それは抑圧している部分よりも主要な心の部分――。そしてその主要な部分の方が 当然勝つことになる。あなたが抑圧しているものはほんとうには抑圧されるものではなく、投げ棄てられてゆかなければならないものだ。たえず抑圧してきたた めに、それはあなたのなかで蓄積物になってしまった。躾だの文明だの教育だの、そういったものの全体が抑圧的だ。あなたは、もっと別の教育を受けたならた やすく発散できたはずのものをたくさん抑圧してきた。


もっと意識的な教育、もっと自覚的な親子関係であったなら発散できたはずのものを――。心のメカニズムにもっとよく気づいていたなら、あなたは文化によっ ていろいろなものを発散させることができていただろう。たとえば子どもが怒っているとき、私たちは「怒るのはよしなさい」と言う。と、その子は怒りを抑え つけるようになる。ほんのちょっとした出来事だったものがだんだん恒常化してゆく。


 そうなると今度は、その子は怒ったふるまいはしなくなるが、実は依然として怒っているのだ。私たちは単に一時的な事柄からあまりにもたくさんの怒りをた めこんできた。怒りを抑圧してでもこないかぎり、四六時中怒っていられる人は誰もいない。 怒りは来てはまた去りゆく束の間のもの。それが表に現された ら、あなたはもう怒らない。だから、私なら子どもがもっと腹の底から怒るままに放っておくことだろう。


 怒るがいい。だがその怒りに深く没入することだ。怒りを抑圧してはならない。むろんそこにも問題はいろいろある。「怒れ」と言えばあなたは誰かに向かっ て怒るだろう。そして、子どもはどんな形にでも育てられる。子どもに枕をあてがい、こう言うこともできる、「枕に向かって怒るんだ! 乱暴にしたかったら 枕にしなさい!」


 子どもははじめから怒りをそらせるような育て方で育てることができる。子どもはなにか物を与えられ、怒りがなくなるまでそのものを相手にあばれることが できる。数分、いや数秒のうちに子どもは怒りを発散して、もうそれをためこむことなどない。あなたは怒りやセックスや暴力や欲望、そういうものをすべてた めこんできた。いまやこの蓄積こそあなたのなかの狂気だ。


 それはそこに、あなたの内部にある。もしなにかの抑圧的な瞑想(たとえば、ただ坐ること)から始めるとしたら、あなたはこういうものすべてを抑圧するこ とになり、それが解放されるのを許さない。そこで私は浄化から始める。まず抑圧をすっかり発散させなさい。怒りをすっかり発散できるときには、あなたは成 熟したということだ。


 やがてあなたは一生の重荷から解放される。否、一生どころか何生にもわたる重荷からも――。あらゆるものを投げ棄てる用意があれば、そして狂気が表に出 るのを許すことができれば、まもなく深い浄化がおこる。いまやあなたは洗われた。新鮮に甦えり、無垢になり、そしてふたたび幼な児に戻る。そうなると今度 は、その無垢のなかで坐る瞑想が可能になる。(ただ坐るなり、ただ横たわるなり、なにでもいい。)なぜなら、もうその坐る瞑想を妨げるような「狂人」は内 側にいないのだから。


 最初になすべきことは、洗浄、つまり浄化だ。さもなければ呼吸の訓練や、ただ坐ることや、坐法(ヨーガのポーズ)などをやっても、あなたはなにかをただ 抑圧するだけだ。それに、非常に不思議なことが起こってくる。あなたがあらゆるものを発散するにまかせたときには、ただ坐るということが起こってくる。坐 法が起こってくるのだ。それは自然発生的なもの――。


 静寂が訪れるとき、静寂が降りてくるときには、それは偽物ではない。あなたがそれを養ってきたわけではない。静寂があなたを訪れるのだ。それはあなたに 起こるのだ。あなたは自分のなかで静寂が成長してゆくのを感じはじめる。ちょうど母親が赤ん坊の成長してゆくのを感じはじめるように――。


 深い静寂があなたのなかではぐくまれている。あなたは静寂をみごもったのだ。そうしてはじめて変身が起こる。さもなければそれはただの自己欺瞞だ。そして、人は何生にもわたって自分自身を欺くこともできる。その自分を欺く力はなんと無限なことか。


Meditation The Art Of Ecstasy
(Osho Times International日本版103号掲載/発行Osho Japan)
copyright 2003 Osho International Foundation

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