アコアのブログ

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ダイナミック瞑想~OSHOによる各ステージの解説

OSHO Active Meditation
http://www.osho-japan.com/guide/dynamic2.html


The Dynamic:ダイナミック技法
OSHOによる各ステージの解説

ダイナミック瞑想  5ステージ60分

■第1ステージ(10分間)――速く、深く、混沌とした呼吸

■第2ステージ(10分間)――カタルシス

■第3ステージ(10分間)――「フー、フー!」のジャンプ

■第4ステージ(15分間)――突然の静止

■第5ステージ(15分間)――祝祭のダンス




第1ステージについて

 ダイナミック瞑想という私の方式はまず呼吸から始まる。というのも、呼吸こそ存在に深く根ざしているものだからだ。あなたはそれに注意を払ったことなど ないかもしれない。だが、もし自分の呼吸を変えることができたら、あなたは多くのものを変えられる。呼吸を注意深く見守ったら、自分が怒っているときは、 呼吸にある特定の律動があることがわかるだろう。恋しているときは恋しているときで、またまったく別の律動がある。


 同じように、くつろいでいるときはまた別なふうに呼吸し、緊張しているときはもうひとつ別なふうに呼吸する。くつろいでいるときと同じように呼吸しなが ら同時に怒ることはできない。それは不可能だ。性的に興奮しているときには、あなたの呼吸は変わる。その呼吸を変わるままに変わらせなかったら、その性的 興奮は自動的に落ちていく。つまり、呼吸はあなたの精神状態に深くかかわり合っているということだ。


 もし呼吸を変えたら、精神状態をも変えられる。逆に、精神状態を変えたら、今度は呼吸が変わってくる。だから私は呼吸から始める。そして、この瞑想法の 第一段階では10分間の混沌とした呼吸を設定している。「混沌たる呼吸」というのは、どんな律動もない、深くて速い精力的な呼吸のことだ。ただ息を吸いこ み、そして吐き出す。あらん限り精力的に、深く強烈に、息を吸いこみ、また吐き出すのだ。


 精力的に、深く強烈に、息を吸いこみ、また吐き出すのだ。この混沌とした呼吸は、抑圧された肉体のなかにひとつの混沌を生み出すためのもの。あなたがな んであろうと、あなたは特定のタイプの呼吸をしている。子どもはある特定のしかたで呼吸する。もしあなたがセックスをおそれていたら、やはり特定の呼吸の しかたをする。あなたは深い息ができない。というのも、深い息は全て生の中枢を打つからだ。


 また、びくびくしていたら深い息ができない。恐怖は浅い呼吸のもとだ。この混沌とした呼吸は、あなたの過去の鋳型をすべて壊すことになる。あなたが自分 自身だとしてこしらえてきたものを、この混沌とした呼吸がぶちこわすのだ。混沌とした呼吸はあなたのなかにひとつの混沌(無秩序宇宙)を創り出す。なぜな ら、混沌が生じないかぎり、あなたは自分の抑圧された感情を開放できないからだ。


 そして、これらの感情はいまや身体のなかへと移っている。あなたは身体と心とふたつになっているのではない。あなたは身心(精神身体)として在る。あな たはその両方だ。だから、身体になされたことはなんでも、心に届くし、心になされたことはなんであれ身体に達する。身体と心はひとつの実態の両端なのだ。 10分間の混沌とした呼吸はすばらしい! しかし、それはあくまでも混沌としていなければならない。


 それは調息(ヨーガ式呼吸法)の類ではない。ただ呼吸を使って混沌をつくり出しているだけだ。そして、混沌をつくり出すことには次のような多くの理由が ある。深く速い呼吸をするとそれだけ吸う酸素の量がふえる。体内に酸素がふえればふえるほど、あなたはますます生き生きとなり、それだけ動物的になる。動 物たちは、生き生きとしているが、人間は生きているのか死んでいるのかわからない有様だ。


 あなたはふたたび動物にならなければならない。
そうしたときはじめて、あなたのなかにより高次のものが展開してくる。ただ半分しか生きていないとした ら、あなたのためにできることはなにもない。そこで、この混沌とした呼吸はあなたを動物のように変える。生き生きとして息吹き、震え、溌剌となる――血の なかに酸素が増せば増すほど、それだけ細胞のなかのエネルギーも増大する。あなたの体細胞はそれだけ生き生きしてくる。


 このように酸素を得ることは体内に電気を生じさせる。この電気を「生エネルギー」と呼ぶこともできる――それを生体(生命)エネルギーと呼んでもいい。 体内に電気があるときは、あなたは内側深くに、自分自身を越えて進んでいける。その電気はあなたの内部ではたらく。体には独自の電源がいくつかある。もし あなたが呼吸をふやし酸素をふやしてその電源を打ったら、それは流れはじめる。


 そして、あなたがほんとうに生き生きとなったら、あなたはもはや肉体で感じることが少なくなる。あなたはだんだんエネルギーとして自分を感じはじめ、物 質としては感じなくなる。より生き生きと活気づく……そういうことが起きるときには、必ず人は肉体志向ではなくなっている。


 セックスがこれほど魅力あるものだとしたら、その理由のひとつはこうだ。もしほんとうにその行為に没入し、全面的に動き、全面的に生き生きとしていた ら、そのときにはあなたはもはや肉体ではなくなる。あなたはエネルギーになる。もしあなたが超越したいのなら、このエネルギーを感じること、このエネル ギーとともに活気づいているということは欠かせない。





第2ステージについて

 私のダイナミック瞑想法の第二段階は浄化だ。ここでは、意識的に狂いなさい。なにが心に浮かんでも、それが自らを表現するままにまかせなさい。それに強 力するがいい。抵抗はしないこと。ただ感情の流れるままに――。叫びたければ、さけぶがいい。それに協調することだ。あなたの全存在が巻きこまれるよう な、心底からの全面的な絶叫――。それはきわめて治療力のあるもの、深くまで癒すものだ。


 その絶叫によって、多くのこと、多くの病癖が解放されるだろう。その絶叫が全面的なら、あなたの存在全体がそのなかに入ってしまう。だから、次の10分 間(この第二段階も時間は10分間)は、泣いたり、踊ったり、叫んだり、涙を流したり、跳んだり、笑ったり……いわゆるフリークアウトする(感情の中に自 分を失う)ことで自分に表現を許しなさい。数日のうちに、あなたはそれを感じるようになる。


 はじめのうちは、それは強制であったり努力であったり、あるいはただの演技でしかないかもしれない。私たちはあまりにもうそ偽りに満ちているので、本物 で真正なことはなにひとつできない。ほんとうに笑ったこともなければ、泣いたことも絶叫したこともない。すべてがただ外観だけ――仮面だ。だから、この瞑 想法を実行しだすと、はじめのうちそれは無理強いかもしれない。努力を要するかもしれないし、演技だけで終わるかもしれない。


 しかし、それは気にしないこと。続けなさい。そうすれば、まもなくあなたが多くを抑圧してきたその根源に触れるだろう。その根源に触れて、ひとたびそれ らが解放されたら、あなたは身軽になることだろう。新しい人生がやってくる、新たな誕生が出現するだろう。こういう重荷おろしは基本的なものだ。これをや らなければ、現状のままの人間に瞑想などありえない。ここでもまた私は例外について話しているのではない。


 例外はこの際関係ない。この第二段階でいろんなものが投げ捨てられたら、あなたは空っぽになる。そして、これが〈空〉のなんたるかだ。すべての抑圧が空っぽになるということ――。この〈空〉のなかでなにかが為されうる。変身が起こりうる。瞑想が起こりうるのだ。




第3ステージについて

 次に第三段階では、私はhoo(フウッ)という音声を使う。過去、さまざまな音声が使われてきた。その音声はどれも特別な役割がある。たとえば、ヒン ドゥー教徒たちはaum(オーム)という音声をずっと使ってきた。これはあなたにもおなじみかもしれない。だが、私はオームはすすめない。オームはハート の中枢を打つが、人間はもうハートには中心が据えられていない。オームは、誰もいなくなっている家の扉を叩いているのだ。


 スーフィーたちはhooという音声を使ってきた。「フゥッ!」という音声を大きく吐き出せば、それは深く性中枢に達する。したがって、この音声は内側を 打つものとして使われる。あなたが空に、空っぽになったら、この音声はあなたの内側を動くことができる。この音声の動きはあなたが空になってはじめて可能 だ。もしあなたが抑圧でいっぱいになっていたら、なにひとつ起こらないだろう。


 抑圧でいっぱいになっているときに、なにかの真言や音声を使うのはときに危険でさえある。抑圧の各層がその音声の通路を変え、結局あなたが思ったことも ないような、夢に見たこともないような一度として望んだこともないような結果になるかもしれない。空っぽの心が必要だ。そうしてはじめて真言が使える。し たがって、私は誰に対してもそのままでは絶対に真言など勧めない。まず、浄化がなければならない。


 この真言hoo(フウッ)は、はじめの二段階を経ないではけっしてやらないこと。それは絶対にはじめの二段階なくしてなされてはならない! 第三段階 (10分)ではじめてこのhoo(フウッ)が使われるべきなのだ。ここであらんかぎりの声を出して、あなたの全エネルギーをそれに注ぎなさい。この音声で あなたは自分のエネルギーを打つ。そしてあなたが空っぽになっていたら(第二段階の浄化を経て空っぽになっていたら)、このhoo(フウッ)は深く降りて 性の中枢を打つ。性中枢は二通りのやり方で打たれる。


 一番目は自然なもの。あなたが異性に魅せられるときはいつでも、性中枢が外側から打たれる。そしてその打ちは微妙な波動でもある。男は女に魅せられ、女 は男に魅せられる。なぜだろう? いったい男のなかに、また女のなかに、その魅かれ合いを説明できるようななにがあるのだろう?陽ないし陰の電気があって 彼らを打つ。それは微妙な波動だ。それは実際には音だ。


 たとえば、あなたも、小鳥たちが互いに性的に引きつけ合うために声を使うのを観察したことがあるだろう。小鳥達のさえずりはすべて性的なものだ。彼ら は、特別なさえずり方で、くりかえしくりかえし互いを打ち合っている。このさえずりが互いに異性の鳥の性中枢を打つのだ。微妙な電気波動が、外部からあな たを打つ。自分の性中枢が外から打たれると、あなたのエネルギーは外部に、相手に向かって流れはじめる。


 そのときには再生産が、誕生がある。もうひとり別の人間があなたから誕生する。hoo(フウッ)は、この同じエネルギーの中枢を打つ。ただし、内側から 打つ。性中枢が内部から打たれるときには、エネルギーは内側で流れはじめる。この内なるエネルギーの流れはあなたを完全に変える。あなたは変身を得る。あ なたは自分自身に自らの誕生をもたらす。第三段階では、エネルギーを上昇させる手段としてhoo(フウッ)を使う。


 このはじめの三段階は浄化作用だ。この三つの段階は瞑想ではなく、そのための準備としてある。それは飛躍するための「用意を整える」ものであって、飛躍そのものではない。





第4ステージについて

 第四番目の段階は飛躍。この段階では、私は「ストップ!」と命ずる。「ストップ!」と言ったら、完全に止まらなければならない。絶対になにもしないこ と。たとえちょっとの動きであっても気の散漫をもたら、肝心な点を見逃すことになる。ちょっとしたせきばらいやくしゃみ……、それがなんであっても気がそ らされて、あなたはことの全体を取り逃すかもしれない。そうなったら、エネルギーの上方への流れはたちどころに止まる。


 あなたの注意が動くからだ。いっさいなにもしないこと。大丈夫、死にはしない。たとえくしゃみが出そうになって10分間それをがまんしても、あなたは死 にはしない。せきをしたくなったり、のどがちくちくしても、それを放っておいたところで、あなたは死ぬようなことはない。体をただ死んだようにさせておき なさい。エネルギーが一条の流れとなって上昇できるように――。エネルギーが上昇したら、あなたはますます静かになる。


 静寂はエネルギー上昇の副産物、緊張はエネルギー下降の副産物だ。ここで全身はあたかも消え去ってしまったかのように静かになるだろう。
あなたは体など 感じることができなくなる。体のない状態になってしまうのだ。そしてあなたが静かであるときには、存在全体が静かだ。なぜなら、存在とはかがみ以外のなに ものでもないからだ。存在はあなたを映し出す。何千、何万の鏡となってあなたを映す。


 あなたが静かであれば、存在全体も静かになる。いいかね、その静けさのなかでただ観照者(見者)でいてごらん。たえず油断なく醒めているのだ。なにもし ないで、ただ観照者としてとどまる、ただ自分自身とともにとどまること――動かず、望まず、なにかになることなく――なにもせずに、ただその時その場にと どまるということ、起こっていることを静かに観照するということだ。


 中心に、自分自身の内にとどまるということは、はじめの三段階があって可能なこと。この三段階を踏まなければ、自分自身とともにとどまることはできな い。それについて話したり、考えたり夢想したりしつづけることはできる。が、あなたの用意が整っていないのだからそれは起こりはしない。はじめの三段階 が、あなたが瞬間にとどまる用意をさせる。この三段階はあなたを醒めさせる。それが瞑想だ。


 その瞑想のなかで言葉を超えたなにかが起こる。
ひとたびそれが起こったら、あなたは二度と同じではない。同じではありえないのだ。それは成長だ。単なる 経験ではない。
それはひとつの成長なのだ。

にせの技法と真の技法のちがいはそこだ。にせの技法でもなにかを体験できるかもしれない。

だが体験できたとして も、もとのもくあみになる。それはただの一瞥だった。成長ではなかったのだ。

それはLSDでも起こりうる。あなたは一瞥するだろう。ほかの技法でもこのた ぐいのことは起こりうる。一瞥したり、体験したりはできる。

 しかし、もとのもくあみになるのがおちだ。成長を遂げていないのだから――。

その体験はあなたに起こったのであって、あなたがその体験に対して起こった わけではない。

あなたは成長を遂げなかったのだ。
成長したときには、もとに戻ることはありえない。

仮に子どもが青年になった夢をみたとすると、その子は青 年であることをちょっぴり体験できる。が、それはただの夢だ。その夢は覚めて、彼はふたたび子どもに戻る。
なぜなら、それは成長ではなかったからだ。しか し、あなたが成長して青年になったら、もとの子どもに戻ることはできない。

 それがほんとうの成長――。それが、ある方法や技法の真偽のほどを判断する基準だ。

世の中には、やりやすいにせの技法がいろいろある。

そんなものでは けっしてあなたをどこへも導いてゆけない。

経験を求めるだけなら、なにかにせの技法の餌食になるのがおちだ。

真の技法は、体験それ自体にかかずらっていは しない。真の技法は成長にかかわる。体験が起こる――そのこと自体はどうでもいい。
私の関心は成長にあって体験にはない。

あなたは成長して〈ひとつ〉になり、全体になり、正気にならなければならない。

この正気は無理強いできるものでは ない。
社会はそれを強いようとする。

だがそうしたら、あなたは内面では依然として狂気のままで、正気なのは外観だけにすぎない。

私は正気を無理強いしよう としない。

むしろ私は、あなたを狂気の中から連れ出そうとしているのだ。

狂気が完全に引き出され、まったく捨て去られたとき、正気があなたに起こってく る。あなたは成長し、変身する!





“瞑想――祝祭のアート”より抜粋

                         

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