アコアのブログ

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「性暴力被害者への精神的な援助・治療法について」~援助を受ける専門家からも被害を受ける


(1)二次的な被害について

 性暴力被害者は、二次的な被害が深刻であるといわれている。性暴力被害についての項でも述べたように、あらゆるところで二次的に被害を受ける。心に深い傷を負っている被害者が、また被害を受けてしまうのである。

 アメリカやカナダでは、性暴力の被害者について専門的な知識を持ったスタッフがいるケアセンターがあるそうだ。強姦の直後、ショックを受けている被害者が、自ら動くことなくケアを受けられるのである。日本では、婦人科、警察、弁護士、裁判、被害者相談、精神科の受診、すべて自分で行わなければならないのが現状である。心に深い傷を負って、日常生活までままならない状態になっている時に、こういう行動を自ら行わなければならないのは、とても過酷なことだ。日本の被害者援助のシステムの充実は、かなり遅れているとしか言いようがない。

 性暴力被害者の精神的な援助を行う専門家の育成も遅れている。支援ボランティアの存在もあるが、そういった人たちにも専門的な知識が必要である。被害者の援助はだれにでもできることではない。専門的な知識の少ない専門家から傷つけられてしまうような二次受傷の例も非常に多いのである。

 精神科医療機関でも、プライバシーに対して配慮がなされていないことが多い。その他の診療科の診察室と同じような構造で、精神科医と二人きりで話をすることもできない環境にあることも多いのである。大きい病院であればあるほど、プライベートルームという発想がないという。治療を受けている際に、第三者(看護婦など)が出入りしたり、隣の診察室の声が聞こえたりすることもある。ある人は、自分の診察中に鳴る精神科医ポケットベルにも恐怖を感じるという。三者が介入したと感じるのである。精神科以外の疾患の診察でもプライバシーには配慮されるべきことなのに、性暴力の被害について話したり、治療を受けている時にプライバシーが守られないというのは言語道断である。


(2)援助を受ける専門家からも傷つけられる

 被害者は、被害を受けた段階でものすごく傷つきやすい状態になっている

そして、その後も被害を経験していない安全な場所にいる人たちの心ない言葉によって、また深い傷を受けている。

 被害を受けて苦しんでいる時、精神科等の医療機関を受診する前に、まず身近なところ、例えば、電話カウンセリングや性被害専門の相談機関、民間のカウンセリングを受けてみようと考える人が多いと思う。

こういった行動をとることさえ、性暴力被害者にとっては非常に勇気がいることなのである。

自分ひとりで苦しみを抱えたまま、援助の手を求められない人もたくさんいるのである。

そして、問題なのは、相談したカウンセラーからも傷つけられてしまうことが、非常に多いことなのである。


-陽子さん-  

私は、ある時期、とにかくだれかにこの苦しみを理解してもらいたい、受けとめてもらいたいと必死になっていた。

いろいろな相談機関にあちこちに電話をかけていた時期がある。 その中で、民間のカウンセリング機関の電話カウンセリング(60分)を受けたことがある。この苦しみをただ聞いてほしい、それだけの気持ちで電話をかけた。
 
 しかし、私の担当になったそのセラピストは、自分が一方的に話をしていただけだった。

私が話をしようと思っても、話をすることなどできなかった。口をはさめるような雰囲気ではなかった。

そのセラピストは、まるで心理学の講義でもしているかのように、自信満々に話をし続けていた。

8割以上はその人が話をしていたのではないかと思う。最後のほうは、そのセラピストに圧倒されて、自分から話す気力はほとんどなくなってしまった。
 
 他のセラピストの中には、しばらく話を聞いてくれる人もいた。
しかし、私はまだ話し続けたいのに、そのセラピストは私の話を途中で中断した。
そして、私のおかれている現在の状況を分析しはじめた。そして、DVの加害者の分析までしはじめたのだ。「そのような男性には、幼少時につらい体験があり、それが原因で問題ある行動を起こしているのです。」などと解説をしはじめたのである。これには私も耐えられなくなり、その人に激しい怒りをぶつけた。

 警察の性被害専門相談窓口に電話した時は、女性の警察官が丁寧に話を聞いてくれた。しかし、その窓口にたどり着くまで、女性センター等での電話の対応は悲しいものがあった。対応が冷たく、親身になってもらえている感じがしなかった。威圧的で怖く感じる時もあった。そういったところに電話をかけるのも必死の思いだった。

 また、公的施設の無料相談室でカウンセリングを受けていたこともある。無料であるということで、比較的長期間通っていた。初めのうちは、そのカウンセラー(以下Bカウンセラーとする)に違和感を感じることはあまりなかった。被害について話をするのに精一杯だったからだ。しかし、しだいにBカウンセラーからも心が傷つくような言葉を言われてしまうようになったのである。

 ある時、私はカウンセリングで自分の被害について話すと同時に、自分以外の性暴力被害者について話をしていたことがある。Bカウンセラーに、その性暴力被害者の例と比較されて、
「彼女の方があなたよりよっぽどひどい状況ね。あなたの被害はたいしたことではない。」
というようなことを言われた。私は耳を疑った。カウンセラーの口からそのような言葉が出てくると思わなかったからだ。なぜこのようなことを言われてしまうのかと思ったが、何も言い返すことができなかった。怒りの感情もわいてこなかった。唖然としていただけだった。ただ、その言葉は今現在になっても、私の心に大きな楔となって刺さったままである。  

また、過去の自分の体験として、小学生の頃の誘拐未遂事件について話をしても、
「でも、それは未遂で終わったのでしょう? 実際に性暴力を受けたわけじゃないのでしょう?」
と、軽くあしらわれた。そのことはたいしたことではないことなのだろうか。カウンセラーには、人の受けた被害に対してたいしたことではないとか決める権限でもあるのだろうか。そうやって評価する必要がどこにあるのか。事実を言ってただ受けとめてもらいたかっただけである。それ以外何も求めていない。

また、「あなたは理性で物事を考えすぎるからいけないのよ。それが邪魔しているんじゃない。」と言われたこともある。家庭の生育環境からそういった方法でしか生き残ってこられなかったのに、なぜそんなことを言われてしまうのだろうか。  

そして、Bカウンセラー自身の過去の体験や、他の被害者の体験を持ち出してきて、
「私もこのような体験をしたのよ。」「あなたとは具体的な被害の内容は違うかもしれないけど、このように克服した人がいるのよ。だから、あなたもがんばりなさい。」と言われたこともある。その人は、「私にはあなたの気持ちは分かる。」とは言っていたが、ここまで言っておいて、いったい何が分かるというのだろうか! 苦しみならもう十分味わっている。苦しみに耐えてがんばっている。生きているだけで精一杯なのに、もっとがんばれとでもいうのか!
 

 
 陽子さんは、ただ話を聞いてもらいたかった、受けとめてもらいたかっただけなのである。説教をしたり、相手の心理状況を分析したり、相談者の被害を軽視したり、無用に励ますことは被害者にとってて苦しみ以外の何ものでもない。なぜこんな基本的なことが忘れられてしまうのだろうか。「理性で考えすぎるから……」の発言には耳を疑ってしまう。陽子さんにとっては、小さい頃から、そうすることが生きていく手段だったのである。そうするしか生き残っていく方法はなかったのである。客観的にものを見るから、感情がないからと、どうして被害者が責められなければいけないのだろうか。陽子さんはこのことを信頼している友人に話された。その友人は、
「カウンセラーがそんなこというなんて! どうしてそんな人がカウンセラーをしているのだろうか!」
と言って、一緒に怒ってくれたそうである。なぜ、私やその友人の方のように専門家でもない人間が理解できることが、Bカウンセラーには理解できないのだろうか。 

 こうやって、心に傷を受けている被害者がまた傷を負ってしまうのだ。性暴力被害者、犯罪被害者の心の傷に重いも軽いもない。他人から判断されるものではない。どうして被害者の心に焦点が当たらないのだろうか。これでは、被害者の心はおきざりにされたままである。これは、別に陽子さんに限ったことではない。他にも同じような体験をされている人は多いのである。被害の程度によっては、「たったそれくらいのことで。」と露骨に言う人もいるのである。 長い年月、PTSD、不安発作で苦しんでいる啓子さんの話を参考にさせてもらった。彼女も現在仕事はできない状態である。


 
―啓子さん(仮名)- 

私は、ここ最近、夜、不安発作に襲われ、ひとりでいるのがとても怖くなってしまう。
自分自身で精神安定剤などで対処することもしているが、それでも落ち着かない。だれかにそばにいてほしいが、私は孤独だ。不安な時、友人に話をすることで心は落ち着いてきたが、友人と思っていた人に避けられてしまっている。連絡もとれなくなった。私の状況、症状、言葉など受け止めきれなくなって関わるのがいやになったのだろう。悲しいけれど、今に始まったことではない。こんなことの繰り返しなのである。
でも、ひとりではどうしようもなくなることがある。性被害の心の傷について話せる機関も近くにはない。東京ならいろいろな面で充実しているだろうが、地方はそうはいかない。そういった施設に電話をかけても話し中だったり、何曜日の何時から何時までと決まっていたり、あっても高額な料金を支払わなければならなかったりする。

 私は、「いのちの電話」に電話をかけて話を聞いてもらおうと考えた。「いのちの電話」は、相談件数も多くなかなかつながりにくいらしい。それだけ相談している人がいるということは、話しやすいところなのだろうなと思っていた。がんばって何度も電話をかけた。必死だった。話中でも負けずに何回もリダイヤルした。やっとつながった。

相談員の方の中には親身に話を聞いてくださる人もおられる。でも、中にはこちらが苦しみを背負わなければならないようなレベルの人もいる。

 数回目に「いのちの電話」に電話をかけた時の話である。担当になった相談員に、少しずつ自分がうけた被害の話や、今苦しんでいる症状などについて話していった。話をしていくうちにどんどん気分が悪くなっていくのに気がついた。だんだん腹が立ってきた。

「毎日、涙が止まらなくて情緒不安定で苦しいんです。」「でも、泣けるということは、気持ちが楽になるからいいことじゃないの。」「いえ、私の場合はそうじゃないんです。泣いても泣いても楽にはなりません。どんどん苦しくなっていくんです。」「ふ~ん。あなたはそうではないのね。」そんな人間がいるのかという対応に思えた。
「でも、昔に比べたら、ましにはなってきているということでしょう? それはいいことじゃない。」
「あなたは相談したいのじゃなくて、私に話を聞いてほしいのね。」

他の話の中でも、だんだんとこの人の口調にはっきりとした不快感を感じてきた。複雑な私の心理状態を理解できてもらえてないと感じた。時間が長くなった。

「こうやって長い間話をしてお互い分かりあえたじゃない。」「私、疲れたわ。もう電話を切りましょう。私も人間だから疲れてくるのよ。」と、その相談員は言ったのである。めちゃくちゃ腹がたった。
「見捨てるような冷たい言い方ですね。」と言うと、
「あなたが電話を切りたかったらきってもいいのよ。」と自分をフォローするような言葉を言った。
「あなたが、もう電話を切ってしまいたいから、話をそういう方向に仕向けているんじゃないですか。もういいです!!」 と、私は言って電話を切った。
ものすごく虚しくなった。悲しくなった。相談の電話は他のところにもしたことがある。「もう疲れたから電話をきる。」なんて言われたのは初めてのことだった。「いのちの電話」に電話をかけたのをものすごく後悔した。もう死んでしまいたい気分になった。

 そういえば他の相談員の中でも似たような人はいた。私の状況、症状など話しているにもかかわらず、
「外に出てみて散歩でもしてみたらどう?」 「元気なときならそうもできましたけど、今は症状がひどいからそれもできないのです。」 家庭環境の悪さについて話が及ぶと、「ひとり暮らしをしてみたらどうなの?」と言った。
「生きているだけ、症状に対処するだけで精一杯なのに、そんな経済的な余裕などありません。」と、私は答えた。
高橋りりすさんの詩の一部を話し、「サバイバーは、生きているだけですでに勇気のあることだ。それだけで十分だ。それ以上の勇気を出す必要がどこにあるだろうか。こういった言葉を読んだとき心にしみ込んできた。とても感動した。」と言っても、「そういえばそんな詩があったわね。」と、ほとんど興味もなさそうな返事であった。
電話相談員て何なのだろう? もう何もかもどうでもいい気分になった。
                          

 私は、なぜこの人たちが「いのちの電話」の相談員をしているのか、それが疑問でならない。相談者は必死の思いで電話をしてきているのである。「い・の・ちの電話」なのである。相談員は二年の研修を受けて現場に出るということであるが、この人たちはいったい何を学んできたというのだろう。すべての電話相談員がこうであるというわけではない。腰をすえて、共感のこころを持って、じっくりと話を聞いてくれる人もいる。カウンセリングやいのちの電話相談というのは人の話を聞くというのが大原則である。 「私に話を聞いてほしいのね。」と改めて聞く人がいるだろうか。それに、この人たちの態度には話を聞いてあげているという気持ちが表れている。相談員が優位な立場にたって聞いてあげていると無意識のうちに思っているのである。上から人を見るような言動である。

 啓子さんに話を詳しく聞くと、PTSDについての認識も少なそうだったとのことである。話を分かってもらえてはいないと感じたということである。それなのに、「病気は治ります」「理解しあえた」とは、いったい何を根拠に発言しているのであろう。「彼女が(詳しくは分からないが、何か)苦しんでいる」のだということが相談員に分かっただけで、啓子さんとまったく理解しあえてなどいない。自分が勝手にそう思い込んでいるだけである。相談者のこころにまで考えは及んでいないのである。


 そして、最悪なのは「疲れたから電話を切る」という発言である。基本的なことを言うが、「いのちの電話」の電話相談員は相談者から切ろうとしない限り、電話を切ってはいけないのである。「疲れたから」などと発言をするこの相談員は、最低である。これではただのおばさんではないか。こういう人に相談員をする資格はない。現場にいるほうがおかしい。 啓子さんは、「いのちの電話」事務局にはっきりとした苦情の手紙を書いた。当然である。お互いに匿名であるから誰かは分からない。しかし、この人には相談員を辞めてもらいたい。 相談者は、どれだけの思いをかかえて電話をかけてきているかもう一度よく考えてほしい。その言葉の重みを理解してほしい。自分が発言する言葉で人を傷つけることがあるのだ。言葉はナイフにもなるのだ。そういうことが理解できないのであれば、お願いであるから現場から去っていってほしい。
 現実にこのような専門家は本当にたくさん存在するのである。小西聖子医師によると「これらは専門家の脆弱性や経験不足からきている。専門家が皆、被害者の話をきちんと受けとめられるわけではない。素質が備わっていない人もいる。」とのことである。一般の人にも理解してもらえないことが多いのに、援助者・専門家に受容されなければそのショックは通常の何倍にもなるのである。援助者と呼ばれている専門家なら、相手に苦痛を与えない対応をしてほしい。これ以上、被害者に傷を負わせないでほしい。



(3)被害者への援助

 被害者にとってまず大事なことは、安全な場所で感情を表現すること、そしてそれが受容されることである。ただ、表現すること、話すことすらうまくできない状態になっている場合もある。このことがいかに大事でそして難しいことか。 被害者は、「自分は安全である」という感覚が損なわれてしまっている。安全な場所を探すのにどれだけ多くの被害者が苦しい思いをしているか。そして、やっとの思いで援助を求めにこられるのである。

被害者は、「この人に話しても大丈夫だろうか。」「また傷つけられないだろうか。」と神経を張りつめているのである。
「苦しいのなら、そのまま泣き叫んだら楽になるのに。」と思われる人もいるだろうが、被害者は、その感覚、感情が被害によって奪われてしまっているのである。性暴力被害はこれが最も顕著に現れてしまうのである。そして、その感覚が普通の人たちには理解されないから、その「理解されなさ」が被害者に伝わり、苦しんでしまうのである。

 そして、大事なのは受容である。簡単な言葉だが、このこともどれだけ大事なことか。悲惨な経験をした被害者の気持ちの受容である。容易ではない。本当に難しいことだと思う。被害者によっては、何とか話せる場所ができたと思って話しても、受容されずに苦しんで他のところに頼ってくる場合もある。カウンセラーからひどく傷つけられたり、間違った心理療法をされている場合もあるのだ。被害だけで充分に苦しんでいるのに、二次的に被害にあって苦しんでいる人が何と多いことか。その心は傷だらけなのだ。それでも、必死の思いで生きている人もいるのである。
「絶対にこのままで終わりたくない。負けたくない。」と。 「身体の傷は目に見えるし、この人は傷ついていることが分かるから、手当が必要なことも理解してもらえるけど、心が傷ついてボロボロになっていても目には見えないから、場合によっては余計に傷つけられてしまう。」 と、ある人がしみじみと話しておられたことがある。

(4)治療について 
 犯罪被害や性暴力被害を専門に治療・カウンセリングしておられる精神科医の白川美也子氏の文献によると、
「『外傷性記憶』とは処理能力を超えた体験が、瞬間冷凍された形で、脳の中で疎隔化された状態のことである。トラウマを処理するには、繰り返し語り、安全な環境の中で再体験し、記憶の再統合すること、すなわち、『外傷性記憶』を『語りの記憶』に変換し、認知体系に再組込し、自分自身の記憶に組み込んでいくことである。また、自責感を軽減し正常であることを保障すること、自己統御感(セルフコントロール)や自己尊重感(セルフエスティーム)の回復が重要なことである。」と解説されている。

PTSDの治療法、精神療法として、薬物療法認知行動療法催眠療法・巻き戻し法・リラクゼーション・プレイセラピー・EMDR(眼球運動による脱感作処理法)・TFT等がある。

 陽子さんは、まず初めのころは薬物療法で不安発作などの症状に対処することから始められた。発作時に抗不安薬向精神薬の内服をし、そして、受診後一年経過したころから現在まではSSRIと呼ばれる薬を継続して内服されている。SSRIは脳内のセロトニンの再吸収を抑制する薬で、うつ症状を改善する効果があるそうだ。近年日本でも認可された薬である。その後は、現在はマイナートランキライザーの内服されている。

 白川美也子医師は、「薬物療法は一次的に必要なことである。眠れる、食べることができる、安全であると感じることができる。治療を受けるにあたり最低限のレベルが必要である。」と述べている。

 陽子さんは、度重なるパニック発作やフラッシュバックがあったが、精神科受診直後から数ケ月間、EMDRという心理療法を受け、徐々に症状の改善がみられたそうである。
 EMDRとは、「リズミカルな眼球運動を起こさせることで外傷記憶の処理が適切に進み自己治癒過程が促される方法と考えられている。脳神経の生理的な機序に作用し、否定的認知の脱感作と肯定的認知の構築を迅速に行う加速情報処理の機能を持つ方法のこと」である。PTSDの回復に効果のある治療法であると発表されている。具体的な手順・方法については専門的な文献を参考にしていただきたい。ただ、この方法は精神科医臨床心理士等の資格を有する者(臨床経験も必要)でないと施行できないそうである。そして、施行の際には慎重に症例検討される必要がある。この方法が適していない人もいるのだ。
 陽子さんは、「EMDRは一回のセッションの時間も長いし、イメージの中で再体験することになるので、最初のころはかなりしんどかった。臨床心理士の視線が、加害者の視線とオーバーラップしてとても怖かったこともある。しかし、治療を重ねていくうちに、徐々に回復に向かっているのも実感できた。EMDRの治療の最後のころは、ずいぶん落ち着いてきたように感じた。身体中にべっとりまとわりついていたものが少し消えたような感覚があった。もちろん恐怖の記憶が全く消えてしまったわけではない。フラッシュバックもいまだに起こる。でも、前より少し距離が離れたところで起こっているような感覚がある。パニック発作が起きても何とか自分で対処ができていると思う。」と話されている。

 このようにカウンセリングだけでなく適切な医療機関にかかる必要がある場合もあるのだ。しかし、すべての精神科医臨床心理士がPTSDについてしっかりした知識を持っているわけではないのである。場合によっては適切な治療がなされないことや、違う診断名をつけられてしまうこともある。性暴力被害についての認識、PTSDの治療に関して充分な知識を持っている専門家がいる施設はまだまだ少ないと聞いている。



(5)専門家がPTSDの知識を持つこと
 当然のことであるが、専門家がPTSDの視点、知識、情報をしっかりと持っていることがとても重要なことである。専門家にPTSDの視点や解離の知識がないと、感情が麻痺してしまっていて、淡々と話す被害者の状況が正確に理解することができないために、たいした状態ではない、冷静で落ち着いていると判断されてしまうことだってあるのだ。 解離を起こしている状態の時に、カウンセリングで淡々と記憶(できごと)を話していても、情緒が伴っていなければ、かえって解離が進んでしまうのだそうである。「記憶と感情の統合」ができることが回復へつながる道になると、白川美也子医師は話されている。
 そして重要なのは、被害者に現在起こっている症状は、外傷体験によって非常に特殊な経験をしてきた状況下ではごく自然な反応であることを説明することだといわれている。本当にその通りだと思う。被害者は、
「自分が異常で、普通の人とは違う反応を起こしている。自分がおかしいのだ。」
と思っていることが非常に多いのだ。そうではない。起こって当然の反応なのだということを説明して安心してもらう必要があるのだ。被害者に起こっている状況を適切に理解し、異常だとみなさず、治療に対する知識を持っていることが重要なのである。
 陽子さんは、「かなり後ではあったけど、あの状態が再体験、フラッシュバック、解離という状態だったのだと、これがPTSDからくるもので当然の反応なのだと理解できてからは少し安心することができた。まだまだ恐怖感は残っているけど、こうして自分に起こっている事態が少し理解できると安心することができるし、自分の回復の段階がどのあたりなのかを把握できるだけでも全然違う。」と話しておられる。
 しかし、専門家の知識が必要となる一方で、知識ばかりに凝り固まってしまっている人も問題である。
「その方法は良くないわ。この方法が一番あなたに適しているのよ。」などと言って自分の意見を押しつけたり、
「あなたは~だから~なのよ。」などと決めつけてかかる人も問題があると思う。肝心なのは、いかに被害者に安心感を持ってもらえるかなのである。被害者が求めているのは安全な場所なのである。安全だと感じることができない場所に行っても苦痛なだけである。

(6)援助者との信頼関係
 また、重要なことは、援助者と被害者との安定した人間関係、信頼関係である。援助者に対して、安心感を持てなかったり、受容されないと感じたら、治療もうまく進むはずがない。被害者はとても傷つきやすい状況だということを忘れないでほしい。過敏な状態にある人に安心感を与えることはとても難しいことである。被害者は被害によって人を信じる力をなくしている。二次的にも苦しんで不信感でいっぱいになっている。つらい作業ではあるが、被害者自身が自分で安全な場を探す必要もある。 性暴力被害者の中には、カウンセラーや治療者に対する強い不信感から、全く何の治療やカウンセリングを受けていない人もいる。それだけ深く傷つけられた経験があるからである。


(7)治療法・心理療法は慎重に選択される必要がある
 陽子さんは、このEMDRに出会い少し回復に向かうことができたが、個々で適切な治療法・心理療法は慎重に選択されるべきである。その人にあった方法を選択していくのも専門家の役目である。
-陽子さん(仮名)- 
私は精神科に通院しはじめたころと前後して、知人に紹介され、民間のカウンセリング機関でボディマッサージのセラピーを受けたことがある。
 最初は、部屋でセラピーを希望する数人の人と一緒に説明を受けていた。しかし、私はその部屋の中で気分が悪くなり、倒れそうになった。カウンセラーに連れられベッドに寝かされた。そこでボディマッサージが始まったのである。(もちろん本格的なものではなかったが) それも衆人環視のもとで行われたのである。カウンセラーは、私の胸や心臓のあたりを触り、「何をそんなに怒っているの?」と尋ねた。そんなところで答えられるはずがない。私は意識がもうろうとした状態だった。

 カウンセラーと二人きりにされ、セラピーは続けられたが、この方法は私にとって苦痛以外の何ものでもなかった。性暴力被害を受けたことで、たとえ相手が女性であろうと身体に触られているのが苦痛でたまらなかった。
 しかし、そのカウンセラーには、苦痛であること、怖いことを言えない、言わせないような雰囲気があった。カウンセラーに圧倒されて、自分が支配、拘束されたような感覚になってしまった。「さあ、これで少し楽になったでしょう。」と言われても、私には、「はい……。」としか言えなかった。そう言わされた感じだった。  
 
 カウンセラーと二人きりになっても、私には性暴力被害のことは話すことはできなかった。当たり前だ。そんな体験をしたばかりである。信頼関係のない人に話せるものか。カウンセラーからは、「あなたが詳しいことを話さないからだめなのよ。」と言われた。精神科で受けている治療について話しても、「そんなのだめよ。この方法は効果が早いのよ。」という答えが返ってきた。返事も適当にし、ふらふらになって家まで帰ったことがある。


 陽子さんは、このことが新たなトラウマになってしまったそうだ。
「どうして苦痛だったらそのことを言えないの。」と思われるかもしれない。性暴力被害は、相手の暴力的な行為で、被害者の自己尊重感や自己統御感の能力を奪われてしまっているのである。相手の力で圧倒されてしまうのである。自分には何もできないのだという感覚を植えつけられてしまっているのである。

相手の情報が分からないままセラピーを始めてしまうカウンセラーは、どういう考えでセラピーを行ったのか。だれにでも絶対効果のあるものだとでも思っていたのだろうか?  カウンセラー自身は自覚していないことが多いと思うが、部屋に入ったその時点でカウンセラーは圧倒的に優位に立っているのである。被害者は無意識のうちに、カウンセラーの望む答えを言ってしまうこともある。カウンセラーが導こうとしている方向を察知し、無意識に誘導されてしまうこともある。これは自覚なしに起こる。

 性暴力被害者には、まず自分で選択してもらうことから始めることが大切だといわれている。
自分でできるのだという感覚を徐々に取り戻す必要があるのである。その人個人に適した治療や心理療法を専門家がきちんと判断することは本当に重要なことなのである。  

これも、実際の話である。
陽子さんは精神科に通院する以前は、公的機関のカウンセリングを受けていた。陽子さんは、そこのカウンセラー(以下Kカウンセラーとする)によって、ある時ゲシュタルト療法(集団)の紹介を受け、そのセラピーに参加したのである。少しでも自分の苦しみを軽くしたいと思い、Kカウンセラーに薦められるままに参加することを決意した。しかし、陽子さんはそこで強烈な恐怖感を体験してしまったのである。


-陽子さん- 

私は他の参加者と同じ部屋にただ座っていただけだった。しかし、セラピーが進むにつれてだんだん恐怖感が私を襲うようになった。そのうち、そこに参加している人たちの感情すべてが自分の身体の中に侵入してくるような感覚になっていった。その時は何が私に起こっていたのか把握できていなかった。ただ、怖いという感情だけが心の中にあり、その言葉を口にした。しかし、自分で部屋の外に出るとか、その程度の行動しかとれなかった。その時はそれで少し楽になったと思っていた。怖いという感情を抱えたまま、何とか帰宅した。自宅に着くとすぐに、そのまま意識を失うように眠ってしまった。 翌朝、それまでにない激しい動悸とともに目が覚めたが、そこからは錯乱状態だった。ずっと泣き叫びわめきちらしていた。私の胸の上に『彼女』がいた。彼女は、「どうしてあんなに怖いところに連れて行ったんだ。」「どうしていつも私に怖い思いばかりさせるんだ。」「どうして私にそんな気持ちばかり押しつけるんだ。」と怒っていた。
 
 
私は、「ごめんね。ごめんね。怖いところに連れて行ってごめんね。つらい思いばかりさせてごめんね。」と、一生懸命彼女を抱きしめようとした。しかし、彼女は許してはくれなかった。私が謝れば謝るほど、彼女は暴れだしてしまうようになった。私には彼女をコントロールすることはできなかった。私は、胸が、心が引き裂かれそうで痛くて苦しくてたまらなかった。自分の人格が壊れてしまいそうだった。彼女が私を征服してしまったかのようにも感じた。痛くて苦しくてたまらなくて、それから逃れたくてたまらなかった。彼女は、今にも窓から飛び降りて自殺してしまいそうだった。私が一生懸命こちらの世界に引き戻していた。強烈な恐怖、苦痛を感じなくなるのなら何でもする! 麻薬・覚醒剤・LSDを使えば楽になれるんじゃないか! もう何でもいい! だれか助けて! 早く楽になりたい!」


 陽子さんは、当時のことを振り返り、涙を流しながら、もう一度苦しみながら話してくださった。悲痛な思いで話してくださったのである。胸がはりさけるような思いだった。ことわっておくが、陽子さんは薬物嗜癖など全くない方である。なぜ自分の口からそのような言葉が出てきたか分からないそうだ。その錯乱状態は、信頼できる友人の適切な援助と、投薬、心理療法により一時落ち着いたそうであるが、激しい動悸や不安発作などの症状は一週間以上も持続したそうである。苦しみからは簡単には解放されなかったのだ。

 ゲシュタルト療法は、治療法としては効果のあるものとして認知されている。しかし、クライアントに施行していいかどうか、時期、手段、場所、方法は適切か、慎重に選択されるべきである。強引に感情を出してしまえばいいというものではない。カウンセラーの判断が間違っていたり、PTSDやその治療について知識がないことはとても怖いことである。 まして、Kカウンセラーは陽子さんの反応を全く受容できなかったのである。そういう反応を起こす陽子さんが異常だと言ったのである。

後日、陽子さんは、怖い気持ちを感じながらも、Kカウンセラーのところを訪ね、自分自身に起こったことを訴えた。

 しかし、Kカウンセラーは、「そんなに怖かったのならどうして帰ろうとしなかったの。」「だれも強制的に参加しろといったわけではないでしょう。あなた自身がセラピーに参加することを決めたのでしょう。」「(セラピーを受ける前)あなたはあのころ自分でも少し怖いと言っていたじゃない。」「だれも無理やりセラピストの前に連れて行こうとしたわけではないでしょう。」と、自己弁護をしたのである。

「こんな気持ちのままでは気持ちよく年を越せないわ。」とまで言い放ち、自分の気持ちのことばかり話し出し、自分が感情的になったのである。 

自分自身に何が起こっているか分からない被害者に対して、恐怖感にうちひしがれている相手に対して、なぜこんな言葉が言えるのだろうか。なぜこの人がカウンセラーなのだろうか!

 それとも、このようなセラピーを行っているようなところは、「このセラピーで起こった副作用、過剰な反応に関しては、当方ではいっさい責任を負いません。あとのフォローもいたしません。ご自分で勝手に治療を受けてください。」とでもいうのだろうか。

それなら、最初からそのような誓約書でも書かせればよいのではないか! そういうものがないということは、セラピーの危険性など全く認知できていなかったということではないか!

 陽子さんは、セラピー後の面接で、「そこで、カウンセラーに『そんなに怖かったの。つらかったわね。つらい思いをさせてごめんね』と一言でも言ってくれていれば、その人を恨むことはなかったと思う。でも、ただでさえ恐怖感にうちのめされている私の目の前で、そのカウンセラーは感情的になって、全く冷静さを失っていた。それが私にとってどんなに苦痛だったか、どんなに怖かったか理解できますか?」 と訴えておられる。

 陽子さんは、後に、精神科の臨床心理士に、「そこで怖いと表現できたことの方が素晴らしいことです。よく言えましたね。決して起こっておかしくない反応です。あなたの場合はこのセラピーは危険だと思います。ゲシュタルト療法は一般の医療の治療法でいうなら、外科手術のようなものです。効果もある反面、危険も伴います。扱い方を間違えると、とても怖いのです。」と説明してもらって、初めて、「私がおかしいわけではなかったのだ。」と、ようやく少し安心できたそうである。

  専門家の認識不足、知識不足はとても怖いことである。そして、自分の判断ミスを認めないことも無責任である。

KカウンセラーはPTSDについてのみでなく、ゲシュタルト療法についての認識も甘すぎるのである。

 陽子さんは、「Kカウンセラーは経験が浅いわけではないし、何人もの人をカウンセリングしてきたはずなのに、何の経験をしてきたというのか。まるで、十把一からげに、とりあえずそのセラピーに参加させればいいと思っていたようにも感じる。全く個人を尊重されてなどいなかった。『私も参加したけど、暖かい優しいセラピーよ。効果もあるわよ。』 自分に効果があれば、だれにでも効果があるのか。自分が感じたそのままを他人も感じるというのか。 私個人の病状や、危険性など全く頭の中にないではないか! その人がいまだにカウンセリングを行っていることに強い怒りを感じる。また、そのカウンセリングルームの利用率が高いことが、新聞に掲載されているのを見て強い憤りを感じた。あの時にできてしまった切り裂かれた傷口から、再び血が噴き出してくるかのようなパニック発作を、その後何回も経験している。何回も苦しんでいる。そのたびに悔しくて悔しくてたまらなくなる。」と話されている。


(8)自助グループの存在

 被害者にとって、同じような性暴力被害にあった人たちの自助グループに参加し、話す機会を持つことはとても大事なことである。

被害者同士でないと理解しあえない独特の気持ちや感情があるのである。「同じような症状で苦しんでいる人の話を聞くこともできるし、受けている治療の情報交換をすることもできる。その中でいろいろなことを学んで強くなっていった。」と話される人もいる。 

ただ、心が癒やされるには長い年月が必要になってくるのである。「その部屋に入ることが怖い。」「グループに参加すること自体が苦痛になる時期もある。皆の話を聞いているうちに自分が圧倒されてしまった。圧倒されて自分の気持ちがうまく表現できなかった。メンバーの皆が怖くなってしまったこともある。」「性暴力被害でも、被害の内容は違っているし、皆が必ずしも同じ心境ではない場合もある。自分だけは皆と違うのだという疎外感、孤独感を感じたこともある。」と話される人もいる。

 各々で、被害の状況や出現している症状や回復の過程も違う。
参加した時の健康状態や心理状態も違う。
グループに参加すれば必ずしも皆が安心できるわけではないのである。
最初のうちは何回か参加していても、途中から、全く来られなくなる人もいるのだ。

 こういった問題も含んでいるが、自助グループの存在はとても貴重である。

「参加する機会は少なくても、皆に出会えて良かった。」「私ひとりじゃない。」
「いざという時、気持ちを一番理解してもらえるのはこういったグループの人達だ。普通の人には通じない感情について話ができる。ここなら自分の気持ちや感情について表現しても拒絶されない。」と、話される人もいる
 しかし、日本全国で考えると、こういった場所や機会が充実しているわけではないのが現状なのである


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