Osho, Above All, Don’t Wobble, Talk #12より抜粋
「痩せたかったら、内側を見よ」
「私はなぜ食べ続けてしまうのでしょうか。でも本当の質問はこれじゃないんです。もっと何かが何か別のものがあるんです。おかしいかもしれませんが……」
「いや、そうやって判断してはいけない。おかしいと言う時、あなたはすでにそれを非難してしまった、そしてそのことも問題と関係があるかもしれないのだ。
それではどんな問題からも脱け出すことはできない。
ものごとを名づけたりしないで、それを理解しようとしてごらん。
人が食べ過ぎてしまう時、それはその底流にある何かの徴候だ。
食べ物というのはいつも愛の代用品だ。愛のない人、どこか人生で愛が欠けている人は、今までよりもっと食べるようになる。それが愛の代用品だからだ。
子どもが生まれた時、最初の愛と最初の食べ物は同じではないだろうか?
つまり母親だ。それで食べ物と愛には深い関係があるのだ。
実のところ、食べ物が最初にやってきて、それから愛がついてくる。
まず子どもは母親を食べる、そうして彼はだんだんと、母親はただ食べ物というだけではなくて、自分を愛してくれてもいるのだ、ということに気づく。
もちろんそう気づくためには、子どもはある程度成長していなくてはならない。
最初は、子どもは愛を理解することができない。
食べ物という言語なら理解できる、すべての動物にとって自然で原始的な言語だからだ。
子どもは飢餓とともに生まれてくる。
すぐに食べ物が必要だ。
愛が必要になるのはもっと後になってからだ。それはそんなに急を要することではない。一生の間、愛なしで生きることもできるが、食べ物なしで生きられるだろうか?それが問題を作り出す。
だから子どもは、
食べ物と愛の関係に気づくようになる。
子どもはだんだんと感じるようにもなる。
母親がとても愛に満ちている時、彼女の乳房の与え方は特別だ。
そして愛ではなく、怒りや悲しみに満ちている時にはしぶしぶと乳房をくれるのだ。
全くくれない時だってある。
それで子どもは母親が愛してくれている時、食べ物が手に入る時はいつでも、愛も手に入るということに気づくようになる。
食べ物が手に入らない時はいつも、愛も手に入らないと子どもは感じるし、その反対もそうだ。
これが無意識の中にあることだ。
どこかであなたは愛のある人生を恋しがっていて、それで食べ過ぎるのではないだろうか。
それは代用品なのだ。
あなたは食べ物で自分を満たし続け、内側に隙間を残さない。
だから愛は必要ではなくなる。
どこにも隙間が残っていないからだ。
それに食べ物なら事は簡単だ、食べ物は死んだものだからだ。好きなだけ食べ続けることができるだろう?
食べ物はいやだとは言わない。
食べるのを止めても感情を害したなどとは言わない。
食べ物についてはあなたが主導権を握っていられるのだ。
けれども愛の中では、あなたはもう主導権を握ることはできない。
あなたの人生に他者が入ってくる、そして依存が入ってくる。
あなたはもう独立したままではいられない。それは恐ろしいことだ。
エゴは独立していたいと思う。
エゴはあなたに愛することを許さない。
許すのはもっと食べることだけだ。
あなたがもし愛したいのであれば、エゴを落とさなくてはならない。
食べ物が問題なのではない。
食べ物は単なる徴候にすぎないのだ。
だから私は食べ物のことや、ダイエットをしたり何かをしたりするようにとは言わない。それでは助けにならないだろうし、効果がないからだ。
あれこれとやってみてもいいが、それでは何も変わらないだろう。だから私はその代わりに、食べ物のことは忘れて好きなだけ食べ続けるように、と言うのだ。
愛のある生活を始めなさい、恋をしなさい、あなたが愛することのできる人を探しなさい。
そうすればあなたはすぐに、自分がそんなに食べなくなるのに気づくだろう。
観察したことがあるだろうか。
幸福な時には、あなたは食べ過ぎたりしない。悲しい時には食べ過ぎる。
幸福だと食欲も旺盛だと人は思うだろうが、それは全くばかげている。
幸せな人はとても満ち足りていて、内側がいっぱいになっているのを感じる。
不幸な人は自分の中に食べ物を放り込み続けるのだ。
だから食べ物のことには触れないでおこう……今のままでいなさい、でも恋人を見つけること。
Osho, Above All, Don’t Wobble, Talk #12より抜粋